ウオの回遊日記

自由に日々を記録する

【雑談】生きるのは自分をもてなすこと

ここのところ、家族が長期出張で不在である。

そして私は数日間入浴せず、今朝、やっとシャワーを浴びる気になった。頭の痒みが強まっていたので、スッキリした。

いつものことだが、家族がいなくなり1人の生活になると、なぜか自分の世話が出来なくなる。普段から家族に家事や身だしなみ等について厳しく言われているわけではないから、何かの反動、でもない。お風呂も食事も家事も、規則正しく清潔に暮らすのも、全部面倒だ。だらしないと自己嫌悪しても、なかなか直せない。

そもそも自分の世話は何故しなければならないのだろう。精神科に通っていた時期も、そうでない時期も、共通して思っていた。頑張るのは義務ではない。でも私は社会生活をかろうじて送り続け、たまにこうして何もかも面倒になる日々を繰り返す。人に会わなくていい状況をいいことに、人に見せられないだらけきった生活をする。それが嫌だけれど、今は言うことを聞いてくれないのだから、仕方ないとも思う。

お金を稼いで、バランスのとれた食事を摂り、適度に運動して、体型も肌も髪も綺麗に整える努力をして、人間関係や仕事や人生設計に悩んで本やネットに答えを求めて、でも見つからないし意味もないし楽しいことはあんまり無くて、基本的に面倒で嫌なこと、それが生きること。

だから、いかに自分を自分でもてなすかが、少しでも楽しく快適に生きるためには必要な努力なのだろう。

しかし肝心の、自分をもてなす自分の力が足りないと、全然快適に暮らせないし、楽しい何かが見つからない。だから家族とか、別の何かを見つけて寄りかかるしか出来ない。

とはいえ、家族も含め、最後までずっとそばにいてくれて自分を受け入れてくれる都合のいい人などいないのだから(人はいつ事故や病気で亡くなるか分からないし、信頼していた人に裏切られたり、決定的な亀裂が入る出来事も起こり得るのだから)、詰んでいる気がする。自己完結できるか、一緒にいてくれる誰かを常にキープできる程の人間的魅力とコミュニケーションスキルが無ければ、助からないだろう。

 

昔、誰とは言わないが、悩みの答えを求めて、偉大とされる、ある著名人の本を読んだ。そこに書かれていた人生の目的を読み、私はひっくり返った。人生とは神が与えし魂の修行の場だという。

だとしたら、修行した先の目的は何なのか?神とやらは何を企んで、人間達をこの世界に落とし、修行させ、多くの苦しみを味わわせているのか?大きな疑問が湧いたが、そこまでは書かれていなかった。

私は幻滅した。あの人はただのホラ吹きだったのだろう。1番大事な目的が、核心部分が書かれておらず、丸投げだったのだから。人生は修行だと言って頑張り成功している自分を見せ、人を憧れさせ、お金を集める。そういう裏側が透けて見えたような気がした。私はああいうスピリチュアルな嘘が大嫌いだ。だからあれ以来、あの人の発信は追っていない。

 

私は地に足のついた、人をだまして搾取する詐欺師の言葉ではない、別の何かを参考にして、逃げられないのならせめて、少しでも楽しく生きていきたい。

でも、参考になる何かを探すこと自体も、骨が折れるし、そう思っていても、時折ここ最近のように落ちるところまで落ちていくような時間がやってくる。その場しのぎで、やり過ごすしかないのだろう。今はそれしか分からない。
ああ今日も疲れた。腰が痛い。