ウオの回遊日記

自由に日々を記録する

【雑談】普段考えないようにしていること

明日の保証がないこと

しばらく前に、小田急の車内で無差別に人を切りつける事件があった。昨夜、NHKニュースで選挙の開票速報を見ようとして、今度は京王線で起きていたと知り、怖くなった。

 

普段、明日自分や家族が死ぬ可能性は考えないように心がけている。いつの頃からだったか忘れたが、日々のニュースを見ていて、ふと、今生きているのはただの偶然なのだと気付いてしまった。明日の朝、家族の出勤を見送って、その後帰ってくる保証なんてされていない。自分が急な病気で倒れないとも限らない。こんなことには気付かなければ良かったと思う。気付いてから毎日が怖くて、外出時は、自分や家族が車にひかれないように周りを注視し、時折電車やバスに乗って遠出しなければならない場合は、車内をキョロキョロ見回したりして、自分の方が不審者じみていて皆に怖がられるのではないかと気付いてやめたりもした。

でも以前と違い、外出時は「眠らない」「目を閉じない」「イヤホンで両耳を塞がない」「常に少しだけ周囲を気にする」ことは続けている。犯罪者に反撃だとか、車をかわすなんてことは、運動音痴で武術の心得も無い自分には、恐らく絶対できない。しかし、何かの音や視界の隅での変化を見逃さず、少しでも自分達が助かる確率を上げたいと思ったから、外出時の警戒は、何とか続けられるようになりたい。

常に気を張って暮らすことは、正直疲れる。常に警戒を怠らず、また同じような警戒レベルを保つよう家族に強要するのも余計なプレッシャーを与えるようで気が引ける。しかし本音としては、もう家から出たくないし、家族にも出て欲しくない。理不尽な暴力で、人生を壊されたくない。でも、私も家族も、働いて生活していくためには、全く外に出ないなんて現実的に無理である。

何か事件が起こるたび、明日の保証が無いことを意識させられ、逃げられない。そしてどんなに怖くても不安でも、家族が残業で中々帰ってこない、こんな夜も避けられない。どうせ人生なんて、長生きしてもいつか死んで、あの世も神も無く、これまでの一切が無かったかのように存在が消滅して終わるだけの虚しいものだと分かっているが、それでも健康に、楽しく、なるべく自分のやりたいことをやりきって、長生きしたいとは思ってしまう。突然の理不尽な死や、人生の破壊なんて到底受け入れたくない。でも、国も、警察も、鉄道会社も、現状では対処に限界があるようで、もう、諦めるしかないのだろうかと、思考が渦巻いている。考え過ぎて眠れない夜はもう嫌だ。

理不尽な差

最近は、「親ガチャ」「子ガチャ」なんていう、感情を持つ人間を「ガチャ」の結果が悪かったと自分の物差しで判定する、最低な言葉が流行っている。私は自分のことを持たざる者だと自覚しており、親に対しての感情は負の側面が多い。しかし、「ガチャ」なんて言葉は嫌悪感を覚える。生まれた家の経済状況や、両親の夫婦関係、親戚関係、自分の容姿、持病、障害等、人生のスタート地点からの理不尽な差は挙げればきりがない。友人や知人に恵まれても、彼らと自分との差が苦しくて、精神の安定のために距離を置くようになり、消えてしまった関係がたくさんある。でも、どれほど「ガチャ」の結果が悪くて親を恨んでも、解決はしてくれないし、解決や謝罪を求めるつもりも、今の自分には無い。諦めなのだろうが、自分で自分を満たすしかないといつの頃からか思うようになっていた。逆に、親の方から「ガチャ」失敗したかも、というような意味の言葉を投げられた時は、好きではない相手からとはいえ、数年経った今も投げやりな悲しみが湧いてくるくらいには傷ついた。だから、もしそんな話をする機会があるなら、具体的に「あの言葉は傷ついた」とか、「あの時、こうして欲しかった」くらいは伝えてもいいかもしれないが、「ガチャ」失敗等という、相手の人生の背景や感情を一切想像しないような、軽薄な言葉は使いたくないし、聞きたくない。
でも、最近のネットでは、あちらこちらで「〇〇ガチャ」と見かけるので、どうやら一時の流行語で終わらなそうな様子である。ますます、そういう「比較からくる差」についての、あらゆる容赦ない言葉に耐えられない自分のような人は、意識して情報の取捨選択をした方が健康のためだと感じている。

 

以前、私とは違って知名度も影響力もある人が自分は孤独だと書き、実は「今は」パートナーがいると知られると、「お前のどこが恵まれていないのだ」「何が孤独だ」「私の方がもっとつらいのだ」と、反論されている現場を複数目にした。自分も、その有名人が「非リア」であったと常々語っていたので、自分を重ね共感していたのだが、実は別の面でとても恵まれていた事実を知った時は、共感した自分が馬鹿みたいだと恥じ、同時に少し有名人に対し幻滅した。ただ、結局は恵まれていないかどうか決めるのは自分自身であり、どんなに周囲から恵まれていると思われても、自身が納得しなければその人は決して満たされるわけではない、と自分を振り返って思った。いわゆる分かりやすい成功の要素を手に入れても、それで満たされると思っていたのに全く変化が無いどころか、自分の満たされなさが強くなる一方という結果となり呆然としたことがあったからだ。結局いつまでも何かを求め満たされず、他人が羨ましい。日々、自分と他人の心を守るために、自分を隠し、他人には必要以上に踏み込まず、苦行としか思えない人生にやり場のない感情が湧いた時は、しょうもないネット記事を見たりぼんやりとゲームをして、だましだまし日々をやり過ごすしかない。

皆がいつも幸せな世界なんてない

度重なる事件を見て、ネットのたくさんの書き込みを見て、自分の中を見て、苦しい人や孤独な人が1人でも減ればいいのにと思った。他人は比較対象でも苦しめてくる対象でも無ければ、もっと幸せな関係が築けた筈だった。でも現実は違う。せめて、生まれや家族、友人知人、環境に恵まれなくても、全く関係のない赤の他人でもいいから、優しい言葉をかけてくれる人が増えたら、やり直しや様々な人生を認めてくれる世界になったら、少しだけ人々の明日の保証はされるかもしれないし、他人を妬んで苦しむ時間も減るかもしれない。でも、結局社会の片隅でひきこもって暮らしたい小心者な自分には、自分と、たった1人の家族に優しくするだけでも、精一杯どころか、まだまだ足りない現状である。
昨夜は、ネットで多くの感情的な言葉や意見や、息が詰まる映像を見過ぎてしまった。何事も心身の健康が無ければ成り立たないのだから、今夜は早く寝たい。寝よう。