ウオの回遊日記

自由に日々を記録する

【雑談】ないものしか見ない私、あるものを見る家族

しばらく前に、家探しで理想と現実に打ちのめされた、という記事を書いた。そして、そろそろ家探しも大詰めに入ってきた現在も、それは続いている。外出すれば、周りの家を見ては、歩いている人を見ては、ああ私は彼らのようにはなれなかったのだと沈んでいる。

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家族には滅多に言わない。言わないようにしている。以前、家を探し始めた初期に、2度ほど話してしまい、励ましてくれた。申し訳なかった。
家族だって思うところはあるだろうし、あまり暗いことを話しすぎると、家を探す気力が無くなってしまいかねないし、2人の関係も悪化するかもしれない、と思った。だから、あれ以来黙っている。

それなりに私達の条件の中でいいものは見つかったとは思う。ただ、私は、ベストではない、とも思っている。ただ、いつまでも探して見つかる保証もなく、それどころか、今見つけた、「それなり」さえ、迷っている間に誰かが買ってしまうかもしれない。だから、家族の説得もあり、私はここが決め時だろうと諦めた。

家族が羨ましい。あの人は、自分の限界を知っても、陰では落ち込んだりしているのかもしれないが、表には出さず、「運がいい」とか、「これがいい」と言ったりする。手に入れたものを褒めるのが上手いし、自分より上の人々をうらやんだり、比較して鬱々となっている様子が見えない。
一方、私は、家族とは真逆の反応をする。常に誰かと比較して、努力不足の自分を嘆いているだけ。家族と私、どちらが生きていて幸せそうかと問われれば、間違いなく家族だろうと思う。

まだ先のことは決まっていないが、もし、いずれ子供を作り、親になった時、親に向いている人間というのも、私ではなく、家族だろう、と、よく考えている。物事に対して、ないものしか見ない私は、きっと人間に対しても同じく、他人と比較して、ないものを見てしまうだろう。そうして、子供のためと思いながら、実質自分のために、子供を追い込んでしまうかもしれない。私はいわゆる毒親になるだろう、と想像する。すると、もともと子供を持つ意味も分からず、臆病であるのに、ますます子供を作りたいと思えなくなる。それがまた、子供を持ちたいと強く望んでいる家族には、申し訳ないと思っている。

ずいぶん長い間、ここまで書いてきたような、性格による考え方の偏りのようなものは、直しようがないのだと思っていた。しかし、数年前から通っているカウンセリングルームで、先生からは、スポーツの練習で行う素振りのように、繰り返せば直せる、と言われた。それでも日々の忙しさやら、しんどさに流されて、対処できたものはほとんどない。
だから、家のことが落ち着いたら、また、心理学系の本を読んだり、カウンセリングに行ったりして、この不幸せな性格を直したいと思う。
家族を不幸にしたくないし、自分も不幸にしたくない。
いつか、あるものだけで満足したい。